世界シリーズ・第二界 世界を売ってみませんか?

   



第三部 結(欠)





 イヅルはガードレールの上から飛び降りた。
 ふわり、と一瞬の無重力感。
 直後に、ズン、と重力が戻ってくる。
 夕暮れの街の()が刹那に近づき、

 トン、と。

 1秒たたずに、彼の足は地面をとらえた。
 降りた時の勢いで手が前後に揺れる。
 後ろに揺れた指先が冷たい感触をとらえる。
 手に触れているのはガードレール。
 猫の額ほどのガードレールの向こう側に降り立ったのだ。
 境界線。
 彼方(かなた)此方(こなた)の一里塚。
 彼はそこから夕暮れを見渡す。
 紅く、赤く、茜色に染まっているすべて。
 彼は何を見ているのだろうか。
 何かを決意したのか、(まぶた)を下ろし、
 ガードレールを触れていた手を放し、
 そして、
 …………………………………………………………………………………。



 生徒会室。
 女性と少女が二人きりで向かい合っていた。
 女性の方は嶺柄(みねつか)ミネコ、生徒会会長だ。
 少女の方はカミイミウ、生徒ですらない。
 高校生とは思えない体付きのミネコは革張りの椅子に腰掛け、というより偉そうにふんぞり返っている。そしてどうみても高校生どころか男の子にも見えないミウは男ものの制服を着て体面に座っている。
 異様な光景だ。
「ん? どうしたイヅル、いつもの仕事やらないのか?」
「え? あー、今日はいいんです」
「………まあ、お前がそう言うんならそうなんだろ」
 そう言うとミネコは読書に戻ってしまった。
 生徒会。
 それは生徒の意見を集めまとめて教師に進言したり、行事の計画、裏方、進行調整を(つかさど)る生徒主体の活動集団。
 学校という一つの社会の中で裏方に徹し、面倒な雑事を一手に引き受けるために、ある種の尊敬のまなざしを受けることもある。
 ある、のだが。
 そのトップに君臨する嶺柄ミネコはなんの仕事もせず本を読んでいる。しかもそれがいつも通りであるかのようにふるまっている。
 普通、放課後の活動で集まったならもう少し会話があるだろうに何にも会話はない。もしかして会話をしなくてもいいような気やすい関係なのかもしれない。もしくは本当にイヅルは彼女の言いなりになっていてパシリ扱いされていたのか。
 どっちにしろミウにしてみればイライラする。
 ミネコは言葉遣いも男勝りで乱暴なのだが、そうと感じさせずむしろ気品が女らしさがにじみ出ているのもイライラさせる要因だ。
 ミウの正直な第一印象は変な女、で関わりあいになりたくないのだがイヅルのことについてこの女なら何か知っているかもしれないので避けるわけにもいかない。
「…………あ」
 話すきっかけを作ろうと思い嶺柄を呼ぼうと思ったのだが、よく考えたらどう呼べばいい?
 普通なら「会長」や「先輩」なのだろうが情報収集した時には皆口をそろえて『嶺柄ミネコ』とフルネームで呼んでいた。それはイヅルの時と違い親しさが全然感じられなかった。
 そんな嫌悪とまではいかず忌避とでもいうべき対象と同じ活動集団に所属しているのだ。呼び方がほかの人間とおなじなわけがない。嶺柄先輩? ミネコ先輩? もしかして本当に恋人でミネコと呼び捨てかもしれない。
 うがー、とオーバーヒートしかけたミウに思いがけないことが起こった。
「イヅル、あんた今日どこか変」
 ミネコの方から話しかけられたのだ。ミウはそんな予想外で核心をつかれたかのような出来事に混乱し目を泳がせる。
「べ、別に変じゃない」
「ふーん、そ」
 焦って少しどもってしまったがミネコはあっさりと引き下がった。どうやら元からあんま興味がなかったようで本から顔を上げもしなかった。
 どうやら礼儀とかを気にしなさそうな人物なので、そこらへんをあいまいにして聞いてみることにした。
「あの、聞きたいことがあるんですが」
「ん?」
 ミネコは本から顔を上げると、微笑むというより睨むような笑いでこちらを射抜く。
 やば、なんかヘマしちゃった、と思ったミウだが、ミネコは優雅に長い足を組み替えてうれしそうな声をだした。
「おやおや、やっとか。いつもなら作業をしながらすぐ話しかけてくるのにいつまでたっても何もないから、ひょっとして私はこのままつまらない本を読み続けないといけないのか、と苦悩してしまったよ」
 キザった口調が様になるような声色と態度だった。どうやらいつもイヅルから話しかけていたので、自分から話しかけるのはためらっていたようだ。
 先ほどの「お前、変」というのも普段と違う行動をしていたからか、と判断しミウは鞄からノートとペンシルを取り出し作業するふりをする。
 傍若無人、と言うには気のよさそうな性格のようなのでこれ幸いに、といろいろ聞きだす方針で行くことにした。
「イヅル―――俺のことをどう思ってます?」
「ん? 何を今さら、もちろん愛してるぞ」
 バキリッ、と握っていたペンシルが砕け散った。
「おいおい、冗談だって物は大事にしろよ。お前のことどう思ってるかって、曖昧すぎてどう答えればいいか分からん」
「えーと、ですね『相坂伊鶴』という人物について、答えてください」
「なんだそれは、小学生の宿題か。まあ、一般的な評価を一言でいうなら『イイ奴』じゃないかな」
「『イイ奴』…………」
「そ、でも『イイ奴』といっても優しい気持ちのいい奴って意味じゃない」
「? どういう意味で」
「都合の『イイ奴』だよ。雑務を一人でこなしてもめ事も解決し相談にも乗り用事を手伝いこの嶺柄を抑える、女が男を振る時に使う方の都合の『イイ人』だ」
「…………………………………」
 あけすけと陰口、いや堂々と相手を見据えているから面罵(めんば)、をする。
 そのすがすがしいまでの相手を気遣わない態度に、唖然(あぜん)とするミウ。
 何なんだこの女。
 親しいはずのイヅルである自分にここまでの悪意をぶつけるなんて、恋人でなくてもすくなくとも友達くらいの間柄であるはずなのに。
「ショックを受けたかイヅル? そんなことはないだろう、だって」
言葉をなくすミウをよそにミネコは告げていく。
「だってお前が自分でそうなっているんだから」
「え?」
「私が気付いてないとでも? 流石にお前でも予想はできなかった、か?」
 ミウの問い返しをどう受け取ったのか、ミネコはくっくっくといやな感じに笑う。
「だってお前、友達つくってないだろ。毎日毎日こんなところに通ってたらできないだろ。なのにお前は来る」
 その原因がぬけぬけと言う、と半眼でミウがにらむも気にせずミネコは続ける。
「それを建前にしてな」
 聞き捨てならないセリフに続けた。
「お前は友達がいない、じゃなくて作らないんだ。全校中が顔見知りなら友達だってそれなりにできるだろう。帰りにどこか寄ろう遊びに行こうと誘われる。でも、お前は生徒会、私の面倒を盾にして断る。ある一定以上は自分に踏み込ませない。そんな浅い付き合いなら、広く浅い付き合いなら学校中の人間と顔見知りになれなくも、ない」
「…………………じゃあ、イヅルは、わざと人と『イイ人』を演じている、と」
「わざと、とは言い方がトゲトゲしいな。わざとではなく、自ら好んで、と言い直しなさい。別に人間が自分を演じるなんて珍しいことでもあるまい。別に人付き合いが嫌いな人間なんてたくさんいるだろ」
「…………………」
 でも、それは少なくとも高校生が日々の生活で自分を演じるなんてやらないだろう。
 演じる、なんてのはとても疲れる。今のミウのように。
「私個人の意見としては、役に立つ手下、興味ある後輩、理解ある部員、かね」
「…………………理解ある、って別に、してませんよ」
「ん、そうか? 私たちは似た者同士じゃないか」
 さも意外だというふうに目を見開くミネコ。そんなおおげさな一動作一動作が鼻につく。
 イヤな感じだ。
「似てませんよ」
「いや似てるね。私とイヅルは似ているね」
「似てませんよ」
「いや似ている。イヅルと私は兄弟のように似ているよ」
「似てません!!」
 いきなり怒鳴るミウに驚いたミネコは動きをピタリと止める。
 ミウのことがイヅルに見えているミネコは怒鳴るというイヅルからかけ離れている動作に違和感を覚えたのだろう。
 その不信感に気づいたミウはあわてて誤魔化す。
「や、あの、そういうの、好きじゃないんで………」
「……………………いや、こちらこそ配慮が足らなかった」
「え? その、あの、別に」
 素直にミネコに頭をさげられて戸惑うミウ。素直に謝るタイプだと思ってもいなかったのでなお混乱に拍車がかかる。
 そんなミウを助けるためか、ミネコはパンと両手を打ち合わせ話を逸らす。
「で、どこまで話したっけ? 確かお前の日々の人間関係についてまでか。ちなみに話すのはやめないからな、せっかく興が乗ってきたんだ最後まで付き合ってもらう」
「はあ…………」
「じゃあ、次は私のお前に対する印象でも語ろうか。いつもなら()め殺しにして羞恥(しゅうち)プレイでもするんだが今日はイヅルの機嫌が悪いみたいだから真面目に話そうか。そうだな、昔話から始めようか」
「昔話? なんですかそれ」
「何、昔々ある所に、なんては言わないさ。たいしたことじゃない、この間の話さ。例えば、そうだな…………昔、といっても数カ月前『人が死んだら何処へ行くのか』を議論したことあったろ」
「………はい」
 当然ながらミウは知らない。
 ミネコは目を閉じて懐かしむように思い返す。
「普通なら天国や地獄、冷めたふりをするマセた奴なら、死んだら無になるだけと答える。だがお前は違った。その時の答えが独特だった。私は初めて『(おもんぱか)る』という日本語を知った時のような衝撃を受けたよ」
「……………………………」
 シリアスな場面何でツッコミは無し。
 ミネコは目を開いて声色をイヅルに(無理やり)似せて語り始めた。
『人は死ぬと何処へ行く? それは人はどこから生まれてくる? という疑問と表裏関係です。
 何処へ行くはともかく、どこから生まれてくるかなんてのは子供でも知っています。お母さん、つまり女性のお腹です。
 なら、子供はきのこのように女性のお腹の中で自然に生まれるのでしょうか?
 いいえ、ちがいます。父親、となる男性と母親である女性が性交渉し、精子と卵子が受精し受精卵になることで始まります。これが子供の元です。
 ならば精子、または卵子はどこからでるのか。とりあえず、精子、これはアクロシンやizumo、ようするにタンパク質によって形成されています。
 では人はどこからたんぱく質を用意するのか。これは外部から摂取、ようするに大豆やら肉やらを食べて栄養にしているのです。
 ではその肉や大豆はどこから――――と、永遠に連鎖していきます。
 そうですね食物連鎖と原理は一緒ですね。
 土は植物に栄養を吸収され、植物は草食動物に食べられ、草食動物は肉食動物に食べられ、肉食動物は死んで骸を残しバクテリアに分解され土に栄養を残す。この場合、人間は肉食動物に相当します。
 つまり人間は質量保存の法則にのっとって、体も心も魂も自然に帰る、
 というより世界≠ノ(かえ)るのです』」

 食物連鎖。
 一切衆生、輪廻転生。
 めぐり、めぐる。
 世界に還る。
 彼女は好きな本の一文をそらんじるように思い出しながらしゃべる。
「それって、さ。死んだら何もない、って言っているより酷くないか? だって人間なんて所詮犬畜生と同じ土俵の上のただの哺乳類だ、って言ってるようなものだろ」
 この世界に本当の意味で自分が動物だと自覚している人は何人存在するだろうか。
 サル目ヒト科の霊長類。
 自分がそこに分類されていると理解しているのだろうか。
「現実主義、というより唯物主義だよな。俗物が極まって即仏になったって感じだよな。まあ、そこがお前らしいんだがな。うん、お前は興味深い」
 締めくくるようにそう言う。
 沈黙を続けるミウと同じようにミウも瞼をおろして眠ったかのように黙ってしまった。どうやら話は終わりらしい。
 正直今の話はミウにとってはよくわからなかった。 回りくどすぎて観念的過ぎて理解しきれなかった。
 それに人のよさそうな少年がそんな冷めた考えをしていたとは到底思えなかったからでもある。
 お兄ちゃんはそんな人じゃない。
 だがそれでも、わかったことが一つだけあった。
 それは、この女は危険だ(・・・・・・・)ということ。
 それは曖昧な話だった。
 不安定で不透明。
 幽霊のような。
 そんな自分が理解できなかった話を、イヅルのことをミネコは理解しているのだ。。
 自分よりも、理解していた。
 ミウは会話の中でイヅルとミネコは恋人ではないだろう、と判断していた。
 だが、下手をすると恋人よりも理解していた。
 それがいたく気に入らなかいのだ。
 ミネコが自分よりイヅルを知っていることに。
 昨日会ったばかりのミウと知り合いのミネコでは当たり前のことなのに。
 何故、自分がそこまで「イヅル」という人物に固執するかもわからず。
「―――――――――今日限りでこの部活をやめようと思います」
 一時の感情で貴重な情報源を自ら失おうとしているのだ。
 それが「イヅル」にとって何を意味するのかも知らずに。
 幸か不幸か事態が急転することになると知らず。
 ミネコの瞳が狭まり、急に険しくなる。
「………何? どういう意味だ」
「もう、あなたのワガママに付き合うのは限界だ、って言っているんです」
 ミウは睨みつけながら、腹の中にためていたものを吐き出すように悪意を出す。
「だいたい似た者同士ってのも納得いきません。第一嫌われ者のアナタと人気者のお兄ちゃんを一緒にしないでください。だいたい人のことを漫画の登場人物みたいに勝手に性格を上から目線で判断して、わかったようなことを言って、からかうように言って、不愉快です」
「…………………………」
 ミネコはうつむくようにしてミウから視線を外す。
 それを言葉攻めが()いていると解釈したミウはたたみかける。
「それが高評価ならまだいいですが、よりにもよって人付き合いが浅く広くなんてそんな他人を軽く見ている人柄って指摘するなんて無神経です。それにそういうあなたはどうなんですか、聞くところによると他の生徒にすごく嫌われてるみたいじゃないですか。人の性格を指摘するより自分のをどうにかした方がいいんじゃないですか」
 ミウは言ってやったという高揚(こうよう)感と人に悪意をぶつけた罪悪感で頬がほんのり紅潮している。
 しかしその悪意はその小さな体躯に収まるくらいのものでしかなく、
 ミネコはすでにうつむき彼女から視線を外していた。
「……………………………叶った、捨てた、忘れた、選択肢はこの3つ…………叶った、は大前提としてあり得ない、なら………」
「何を………?」
「お前」
 するどい言葉とともに顔をあげたミネコは高校生とは思えないほどのスゴんだ目をする。
 息巻いていたミウは一瞬で身が(すく)む。 
「忘れたのか? 諦めたのか? なあ―――」
 相手を責めるような。
 相手を思いやる声。
「―――――――――――――――神居伊鶴(イヅル)くん!」
「何を………………………………………………え?」
 聞き返そうとしたミウはその言葉に違和感を覚えた。
 神居、伊鶴?
 イヅルの名字は確かアイサカだったはず。
 そして、
「………………カミイ、イヅル?」
「はっ、やっぱり忘れていたか。記憶喪失ってやつか? 初めは他人かと思ったが、まあいい」
 神居。カミイ。
 ミウの名前はカミイミウ。
 それはミウの名字と同じ読みで。
 それが何を意味するか。
 そのことに思い至ったミウは、それでも震えた声で否定する。
「――――――――そんな、嘘」

「それともこう言った方がいいのかな。3年前に妹である『神居美鵜(ミウ)』を交通事故で亡くして、両親が離婚したために名字が『相坂』に変わった『神居』伊鶴くん!」

「――――――――――――っ!?」
 それはミウの存在を根本から覆すような真実。
 そんな真実がミウの中にすうっと入り込んでくる。
 自分の名前以外の記憶がない。
 あの夕暮れのガードレールから動けない。
 幽霊。
 お兄ちゃん。
 兄と妹。
 そういうことだったのか?
 妙にミウがイヅルに固執するのも。
 イヅルのことをお兄ちゃんと呼ぶのも。
 イヅルがミウに妙に優しかったのも。
 イヅルとミウは――――兄妹なのか?
 否、兄妹だったのか。
 死んだはずの妹が、幽霊となって現れる。
 そんな陳腐(ちんぷ)な、ストーリーだったのか?
 でも、それだといくつかの矛盾点が現れる。
 イヅルはミウのことを知らなかった、という点。
 ミウが彼の妹―――死んだはずの妹だったのなら、何かしらのリアクションがあってもいいはずなのに。
 彼は―――――――――何も言わなかった。
 幽霊となってまで自分の妹に。
 喜びの言葉も、感謝の言葉も、涙の言葉もなかった。
「でも、だけど――――――――――――」
 その代わりに。
 恨み言でも、
 呪い言でも、
 憎み言でもなかった。
 無反応、でもなかった。
「―――――――お兄ちゃん」
 そして何故こんなにも自分は――――――。
 いまだに自分の名前以外の記憶はない。
 彼が兄だという記憶はない。
 それでも、彼が兄だと確信している自分がいる。
 兄と呼んで胸に温かみが広がる自分がいる。
「お兄ちゃん…………………」
「ははははははははははははははははははははははははははは!」
「!?」
 いきなり、ミネコが壊れたかのように哄笑した。
 面白い芝居を見ているように。芸人の小ネタがつぼにはまったかのように。
 面白くてたまらないといった声を出す。
「成程! 記憶喪失か他人かと思ったら両方だったとは! お前、死んだはずの『神居美鵜』だな」
「―――――――!?」
 たったこれだけの、半時にも満たない会話ですべてを悟られたのか!?
 こんな荒唐無稽(こうとうむけい)の話を。
 幽霊なんかが出てくる人外の話を。
 本人ですら今しがた気付いた事実を、いともたやすく気がついたのか!?
「何で………?」
「はははは! こいつはすごいじゃないか、イヅル! お前はどれだけ幸運なんだ! まったくお前はいつでも私を楽しませてくれるな!」
 明らかに言っていることの意味が分からず戸惑っているミウに話しかけてはいない。ここにはいない本物のイヅルに向けて話しかけるように、笑う。
「おっと、悪い悪い。人の話を聞かないのは私の悪い癖でね。何でわかったのか、だって? いやいや、イヅルから茶飲み話で聞いた話をまとめただけさ、ただ情報量が多かっただけさ、別に霊感があるとかじゃないから安心しろ。多重人格という線も否定しきれないがあいつにかぎってそれはない。なるほど本当に乗り移っていたのか」
 実際には乗り移ったわけではなく『世界』を買ったのだが、当事者以外から見るとそう考えるのが一番しっくりくるだろう。
 つまり彼女は全てを―――――それこそ「世界」の売買契約について全然知らない証拠だ。
 知らないのに、見抜いている。
「ん? 何か聞きたそうな顔をしてるな。どれ、お姉さんが答えてやろうじゃないか」
「………………………………」
 ミネコは水を得た魚、色恋話を嗅ぎつけた女子高生のように下卑た笑い方をする。
 その笑いが気に入らず、そしてミネコを信用していないミウは沈黙を保つしかない。
 その沈黙に、ミネコは猫のように笑う。
「ん? なんだ話したくないのか? なら話さなくていい、勝手に想像するから」
 ニヤリ、という擬音が聞こえるほどの不敵な笑みを浮かべ思案し始める。
 それにつられるようにミウも考える。
 イヅルとミウが妹、これは事実なのだろう。
 そう根拠もないのに、確信している、いや信じる必要すらない確固たる事実としてもうミウの中にはある。
 ならば、どうして。
 どうしてイヅルは自分のことを――――――――
「どうしてイヅルが自分のことを妹と呼ばなかったか? だな」
「!?」
 思考を読まれたかのように言われ驚愕し口をぽかんとあけてしまうミウ。
 それを見てミネコはまた笑う。
「くくく、イヅルが絶対しないような表情をするから、つい、な。それよりもあの、甲斐性無しめ。いや、逆か? どっちにしろ同じか。ん、まてよ………ふうん、成程、ねえ」
 と、ミネコは一人で何かを納得し黙ってしまった。そのまま興味を失ったかのように本を読み始めてしまった。
「……………………………」
「……………………………」
「……………………………」
「ちょ、ちょっと…………」
 どうやら本当に興味をなくしたらしく本を悠々と読んでいる 気まぐれを通り越して自分勝手すぎるミネコにミウは恐る恐る話しかける。
 ミウの心情としてはこのまま回れ右して帰りたいのだが、それをおして先の疑問の答えを知りたいのだ。
 どうしてイヅルは自分のことを――――――――
「ん、ああ、悪い悪い、まだ言ってなかったか。しかし、そういうのは本人に聞くべきではないのか?」
 つい数分前まで耳に響く程の笑い声をあげ興味深そうにこちらを観察していたとは思えないほどの、冷たいとさえ言える正反対の態度でミネコはあしらう。
「確かに、そう、ですけど」
 それができれば苦労しない。
 そんなミウの無言の訴えに、ミネコはうっとおしそうに視線を合わせる。
「んー、ここは黙っておくべきか、そうでないか。友情をとるか、そうでないか」
「何の話です?」
「いや、別に。で、それで? 何でイヅルに聞かないんだ?」
「………………………………」
「ああ、言わなくてもいいあたりはついてるから。どうせ、無理やり乗っ取ったから気まずい、とかそんなところだろう。兄妹なんだからちゃんと話し合え」
「………………………………」
 その沈黙は肯定したのと何も変わらない。
 そう、例え兄だろうが妹であろうが彼から「全て」を奪ったのは変わらない。
 ならば、「全て」――――「世界」を返せば済む話なのだが。
 今さら、どうすればいいのか分からない。
「それに、今どこにいるか分からない……………」
 それは単なる逃げ口上だったのだが、
 ミネコは急に眼をむき、苦い表情になった。
「――――――今どこにいるか分からない、だって」
「う、うん」
「憑依したんだから自分の中にいるんじゃないのか? こう多重人格っぽく」
「………違う」
「それは、つまり……………………あー、まずい、な」
「まずい、って?」
「今からまた昔話をしてやろう。まあ、聞け。
 昔々、という程でもないがある所に一介のクソ真面目でクソ生意気で伊鶴とかいう学生がおったそうな」
 昔話の割には悪意が満々だった。
「その学生は家に帰る途中で愉快なことに財布をすられてしまいました。財布の中には家の鍵も入っていたのでさあ大変、家に入ることができません。そんな彼が一言。
『良かったぜ、俺のハートまでは盗まれてなかったぜ』」
「…………………………」
「…………………………」
「………………………え、終わり?」
 つ、つまらなかった。
 そんな小話をこんな時に披露(ひろう)する意味も、その小話の笑いどころもわからない。
 長いうえに、つまらない。ネタとしては最悪だ。
 しかも、イヅルはそんな口調じゃない。
「つまり、そういうことだ」
「どういうこと!?」
「あん? これくらい文章の読解ができないなんて学校で何を学んでるんだ? ちゃんと勉強をしろ!」
 怒られた。つまらないネタの意味が分からなかったくらいで怒られた。なんか理不尽だ。それでもミウは唯一の情報源であろうミネコに付き合うしかない。
「いいか、昔話とかは大抵は教訓を含んでるものだ。今の話を自分の身に起きていることに置き換えてみろ」
「へ?」
 置き換える?
 つまり登場人物に現実の人物を当てはめてみろということ。
 学生・伊鶴は、イヅル、とするならば。
 財布は―――『世界』で。
 家は―――帰る場所で。
 スリ師は―――もちろん。
「……それが、どうしたんです?」
 自分が盗人だというのはわかってる。
 言われなくてもわかってる、始めから。
 でも。
『相手のことばかり考えてても、人生、幸せつかみ損ねるぞ』
 でも、幸せになりたかったのだ。
「どうした、って? いや別に、そんなツンケンするな。別に兄妹喧嘩に口を挟むなんて野暮なことはしない」
 兄妹喧嘩、と言うのか。
 こんな異常な命のやり取りを。
「そう、そこだ。兄妹喧嘩をやめろとは言わん。むしろ推奨するが、『命のやり取り』という意味を分かっているのか、わかってないだろ?」
「わ、わかってる…………」
 命―――『世界』のやり取り。
「財布」を盗んだ。
「世界」を買った。
「命」を奪った。
 どれもこれも重い響き。
「わかってる、だって? 何もわかってないだろ」
 それを表すような重い言葉。
「さっきの例え話も、イヅルのことも何もわかってない」
「そ、そんなことは……………」
「そんなことはなくはない。わかってるならお前はここにいないはずだからな」
「……?」
「伊鶴君はスリ師に家の鍵と財布をすられてしまった」
「それはさっきの例え話じゃ………」
「その続きだ。無様にもスラれてしまった伊鶴君。さてこの後、伊鶴君はどうすればいいのか?」
「どうするって………警察に通報すれば」
「馬鹿、例え話だと言っているだろ。今の状況に他の登場人物が登場する余地は絶対にない。そして家にも帰れないお金もない伊鶴君はこの後どうすると思う?」
「………………………」
 家に帰れず一文無し。そして誰の手も借りられない。
「…………どうするんですか? まどっろこしいですよ、もったいぶらずに教えてくださいよ」
 遠まわしな物言いにいらだつミウをミネコは軽くあしらう。
「それじゃ意味ないんだよ。考えろよ、頭を使え。あんまり使わないと錆つくぞ。難しく考える必要はない。ただ単に思考しろ、家にも帰れず、金もない人間は一体どうする?」
「……………………友達の家に泊まらせてもらいます」
「それはだめだ。登場人物は友達はもちろん家族どころかコンビニの店員まで登場不可だ」
「じゃあ、どうするんですか。スリ師から財布を盗み返すんですか?」
 人物はこれ以上増えない。ならば、登場人物は二人だけ、伊鶴とスリ師のみ。
「いい着目点だ。だが、スリ師は家を乗っ取って引きこもってる。そうそう出てこない」
「じゃあ」
 じゃあ、どうしようもないじゃないか。
「ああ、どうしようもない袋小路だ」
「でしたら、どうするんですか?」
 誰の手も借りられない。スリ師から奪い返すこともできない。
 それとも他に何か手があるのだろうか。
 ミウはそんな疑問とともにミネコを見ると、彼女は至極当然そうに告げる。
「死ぬしかないだろ」
「――――――――――――――――――――」
「他人を頼れない、家もない、金もない。これじゃあ、どうやったって死ぬしかないだろ。がんばっても餓死、がんばらないと自殺だな」
 餓死、自殺。それは死ぬということ。
 そしてこの話は今のミウとイヅルの例え話。
 つまり――――――
「哀れ体を乗っ取られて幽霊になってしまったイヅル君。彼自身は歩き喋り笑うことができても、行く場所がなく喋る相手がおらず笑いかけられない。  もうそれは死人と同じじゃないか。『世界』と関われないとでも言うのかな。誰にも見えず触れられない。そんなものは存在しているといえるのだろうか。  『幽霊』。そんなものはいてもいなくても同じじゃないのか。幽霊見たり枯尾花。この場合も枯尾花であっても本当に幽霊だとしても同じだ。見間違いだとしてもそうじゃないとしても、結果は何も変わらない。ただ話のネタが増えるだけだ。  少し話がずれたがそんな所だ。愛する人にも会えず、家族にも会えず、友達にも会えず、帰る場所をなくし、行くべき場所をなくし、するべきことをなくし、全ての接点を断たれた。  これは『全て』()くしたといってもいいんじゃないか? 全てを無くした人間が、何をするか――――違うな、何もできない人間が最後にできることはただ一つだ。今、している『生きること』をやめるだけ。  すなわち、自殺。
 これしかない。早くしないとイヅルも同じ道をたどるだろうな。だから早く追いかけて止めにいった方がいいぞ。
 ………………………と、もういないか」
 ミネコが視線を入り口に向けると、開きっぱなしのドアがキィキィと軋んでいた。ミウが座っていた椅子にはすでに誰もいない。
「さて、どう転ぶのかね。最後に笑うのはイヅルか、妹か」
 ミネコはそうつぶやくと、机に置いてあった本を開き読み始める。彼女の興味にはイヅルとミウのことはもうなかった。
 本の題名は『たった一つの()えたやり方』。




 ミウは走っていた。
 夕暮れに染まった坂道を転がり落ちるように、時おり転びそうになりながらも、長い髪を振り乱し全力疾走している。
 ブカブカの制服を着ているせいもあり危なっかしい走り方だが、彼女はペースを変えることはなく一直線に走っていく。
 転ぶのを恐れないのは、それ以上に怖れるべきことがあるから。
 そんな彼女は頭の中で今までのイヅルとの対話を反芻(はんすう)していた。
 彼のことを兄と確信している今でも、昔――――彼の妹として過ごした記憶は未だにない。
 だから思い出すのはあの黄昏時からの会話。
『遠慮なんてするな、さびしいだろう』
 そんななれなれしい態度。
『相手のことばかり考えてても、人生、幸せつかみ損ねるぞ』
 そんななれなれしい言葉。
『何でって………欲しいって言ったのはミウだろ』
 そんな馬鹿馬鹿しい親切。
 それもこれも兄妹だったからなのか?
 疑問はちらほらあった。
 イヅルが『世界』を売った後でもミウが彼のことを見ることができた理屈はわかる。
 それは契約がまだ途中だったから。
 でも。
 契約する前にミウのことをイヅルが見つけることができた理由。
 それは生前のミウとイヅルが兄妹という絆があったからなのか――――――

 迷うことなく目指した場所は、あの黄昏の坂道。
 イヅルはそこにいるとミウには確信していた。
 そこで、イヅルは、自らの、命を、断とうと。
 そしてようやくたどり着く。
 彼と初めて会った場所で。
 そこにイヅルは―――――――――――――――――――
「――――――お兄ちゃん!」
 ………………………………………………………………………………………………。




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